月曜日の夕立ちはつめたい

走り出した気持ちが家出して戻ってこないときに書く

「君は誰を好きだっていい」が言えない

f:id:sonagionmonday:20210528143530j:plain



 昨日、プロポーズされた。
 正直言うとあんまり意外ではなかったし、気も動転しなかった。
 でも「ああ、ついに言いやがったな」とは思った。


 私にはこういう友達がいる。友達と、友達。ふたりとも私の友達だ。そのうちのひとり、りゅうが(仮名)と先々月、久しぶりに映画に行った。正月に3人で『羅小黒戦記』を観た以来だ。
 私は《映画館で映画を観る》ということが大好きだ。映画館はその座席の上しか逃げ場がないからだ。もちろん自宅でも映画鑑賞はする。しかし軟弱なので誘惑が多くて集中できないし、共感性羞恥の気があるので、誰かが恥をかいたり笑われるシーンになると、どうしても早送りしてしまう。映画館では目をつむる、耳を塞ぐ、その程度しか対処法がない。早送りはできない。だから私は自分で自分の退路を断ってまで、映画館で映画を観ている。
 まあ、奇特な人間なのだ。そんなしんどさと引き換えにしても、映画は私にいろいろなことを教えてくれるし、豊かさを与えてくれるから。財布は全然豊かにならないけれど。
 
 正月の前は12月の『新解釈・三国志』だった。りゅうがが観たいと言ったので、私はりゅうがを公開日に連れて行った。映画館で観たいと言われると、なんだか嬉しくて私は断れないのだ。たとえ私が福田雄一のことが大嫌いでも、りゅうがが観たいと言うならば連れて行かねばなるまいと思った。りゅうがは私じゃないから。
 そしてりゅうがは、私のことをよくわかっている。よくよくわかっている。むしろ最近わかりすぎている節すらある。映画に連れて行ってもらうという、りゅうがの作戦は成功したのだから。
 しかし見終わったあとにりゅうがが私に言ったのは「なんか……ごめん」という言葉だった。あれが私の大嫌いなタイプの映画だったと理解したのだ。そして休みの日は日がな一日Netflixと仲良くしているりゅうがは、どうやら自分でも「この映画、嫌いや」と思ったらしい。後から聞いた。帰りの車中はほとんど会話がなかったものの、帰ってからはれいな(りゅうがの母、仮名)に「どうしよう、あんな映画俺が観たいって言ってしまったせいで(私に)嫌われるかもしれん」、「呆れられたら嫌や」と泣きついていたらしい。
 最近少し反抗期の気配が近寄ってきて、あまりれいなに何でもかんでも話したがらないと聞いたのだが、これは自分では解決できないと思ったのだろうか。れいなは何かあっちゃ私へLINEを寄越すので、もちろん私にも即伝わっ(てしまっ)た。
 だから私は正月に3人で『羅小黒戦記』を観に行った。傷つけたかも、どうしたらいいかとパニクる私にフォロワーさんが勧めてくださり、私からりゅうがを「おう、シャオヘイ行こ」と誘った。私が怒っていないこと、りゅうがのことが好きだということを伝えたくて、そして《映画館で映画を観た》というのを楽しい思い出にしたかったからだ。この作戦は成功した。りゅうがは帰り道、ずっと「猫が飼いたい」と言っていた。れいなは犬派。

 そしてそんなりゅうがにまた「観たい」とねだられ、先々月に連れて行ったのが『ブレイブ 群青戦記』だ。実は私は公開日に一度観に行った。人の感想が流れてくる前に邦画を観に行く、という謎の同好会活動をしているのだが(※部員は今のところ私とアニメ部門のフォロワーさんのふたり体制)、まさか2回目を観ることになるとは。
 まあ正直、特別いい映画ではなかった。強いて言うならばアクションがアナログでよかったことと、絶対ひとりは推しができそうなキャラの多様さ、あと全然身構えていなかったのでフェンシング部の彼と空手部の彼に心臓を素手で掴まれた気分だった、くらいで。記憶にないが羅小黒戦記のときに予告でも見たのか、それとも自分で調べたのか。とにかく「映画館で観たい!」と言うし、私はそう言われたら連れて行ってしまう。本当に私のことよくわかってんな。
 そもそも、このご時世なので同じ家に住んでいない人間と安易に交流するのはどうなんだと言われるかもしれないが、誇張でもなんでもなく私が放っておくとこのふたりは下手すると貧困で野垂れ死ぬので(悲しいけど過去に起きたさまざまな事件で確信した)、どうせだったら貧乏同士助け合おうぜ! という精神で仲良くやっている。一見外から見えなくとも、お金のある人には想像のできない暮らしというのもあるのだ。
 いざ行ってみると平日の田舎のシネコンなんてガラ空きで、公開からしばらく経った映画なんて余計に人がいない。私とりゅうがのための上映状態で、ふたりきりだったので「あっ、ここ痛いから見ん方がいいよ」だとか「次でかい音鳴るよ」等々注釈もつけられた(この作品はPG12指定なので、保護者の助言があれば観られる)。
 しかし終わってみると、りゅうがの様子がおかしかった。いつも映画の帰り道は私が運転し、りゅうがが助手席に座って感想を話し合う。ああだこうだ言いながらコンビニに寄ってアイスを買ってあげたりして、土産に持たせて家に帰したりするのが常だった。しかしその日のりゅうがは、なんだかずっと話が噛み合わない。なんでだろうと思っていたが、すぐにわかった。りゅうがは推ししか見えていなかったのだ。
 どうもりゅうがの話を繋ぎ合わせて推測していくと、りゅうがの推しは鈴木伸之のようだった。鈴木伸之が出てくるシーンは彼の方ばかり見ていて、メインに進行しているストーリーが全然頭に入っていない。オタクの鑑やん。りゅうがが一生懸命考太のかっこいいところばかり話すので、私はニヤニヤしながらそれを聞いていた。りゅうがは楽しそうだった。そういえば少し前に実写の『東京喰種』をれいなと一緒に観たと言っていた(1作目はPG12、一応)。そうだわ、出てたな、鈴木伸之……。推しが見たくて私に頼んだだなんて、オタクとしては超光栄である。

 知り合ってから少し経った頃に、りゅうがに言われたことがある。私が好きだと。え、なんで。どした。だって好きな『俳優』の話しても、私だけはおかしいって笑わんから。目の前が真っ暗になって、真っ赤になった。誰だそんなこと言うやつ。そしてすぐに思い至った。れいなだ。
 れいなはもしかしたら『普通』じゃないかもしれない息子のことを、少し持て余していた。私はこんな人間なので、彼女のまずいと思う発言はいちいち指摘する。そりゃあもう、うざいくらいに。少しずつ彼女も変わっていっている最中で、最近は「暇やったから見てみてんけど」と、クィアカップルのYouTubeチャンネルを見たりしているらしい。
 でもりゅうがにこの告白をされたときのれいなは、りゅうがのことを『普通』だと信じ込もうと努力していた頃だった。だから私はいつもと同じようにれいなに話をして、最終的に泣きながら説明した。なんか知らんが泣けてきたものは仕方ない。れいなはちょっと引いていたが、もう言わないと約束してくれた。
 あれから数ヶ月、今のりゅうがは私と母親には好きな俳優の話ができるようになった。
 りゅうががいなかったら、れいなと私は絶対に仲良くなっていない。れいなは私の人生に誰ひとりとしていなかったタイプで、私もまたれいなの人生にはひとりもいなかったタイプの人間だ。とにかく真逆のことが多くて、なにか種類のあるものを選ぶときは絶対に趣味が被らない。楽でいいよねといつもふたりで笑っている。そんな私たちが出会って『連帯』をはじめてから、れいなは変わった。
 生まれてきたときからりゅうがには父がおらず、れいなはシングルマザーだ。身寄りらしい身寄りもない。たったふたりでずっと生きてきた。母と子というより、ふたりはお互いに寄り掛かっている依存関係だった。どちらかがドロップアウトしたらおしまいの関係。
 私はれいなには保護者になってほしかったし、それが彼女ひとりでは難しいと思ったので、私も保護者になろうと思った。幸い学校現場に対して知識もあったので、りゅうがが通っている学校と小賢しい手で繋がって、万が一のとき二番目に連絡をもらえるようにしたりもした。

 りゅうがは本当に『いい子』に育ってしまった。きっと大人からすると素晴らしい子に見えるだろう。小さい頃の私とそっくりで本当につらくなる。いい子を演じているだけなのだ。そしてそれが小学生の時分で染みついている。私の前では子どもでいて欲しいのに、いい子に振る舞うことで私の気を引こうとする。そしてそれが自己肯定の手段になっているのだ。
 自分で言うのもなんだが、私は愛想がいい。そういう風に育てられたからだ。ツイートを見ているフォロワーさんは意外に思われるかも知れないが、現実の私はある程度の問題ならば、正直愛想でどうにかできてしまうタイプである。書いていてぞっとするが、媚びを売るのが上手とでも言おうか。
 ただしこのスキルは《田舎の年長者向け》のものなので、もちろん万能ではない。私は物心ついたときから周りには大人ばかりで、その大人の顔色を窺い、その大人が『求めている子ども像』を再現するのがとても得意だった。私の周りにいた大人たちはニコニコし、機嫌の悪い素振りなど見せず、よく働き、口答えをせず、大人の冗談を笑って流す、そんな都合のいい子どもを求めている人間が多かった。ゲロ吐きそう。
 最たる例は実の母親だ。私の母親は自分の機嫌が自分で取れない人間で、機嫌が悪いと私をお前らがケアしろと、あの手この手を使って私たちに「私の機嫌を取れ」と強要してくる。自分の思ったタイミングに子どもが動かないと、すぐにガチャガチャとわざと大きな音を立てて「あんたらになんてもう言わんわ!」と、大きな独り言を聞こえるように言いながら、ものすごい物音を立てて家事をする。そんな人だ。人だった、ではなく。
 母の中には『理想の私の子ども像』があり、そのレールから子どもが少しでも脱線すると気に食わないのだ。レールに乗り続けた私も悪い。でもレールに乗って親の機嫌を取らないと生きていけないと思わされていたし、実際そうだった。そんなわけで、母や周りの大人が求めている風に振る舞うのが一番楽だったのだ。

 りゅうがもきっとそうだ。れいなが求めているように振る舞ってきた。年齢にしては少し幼いのはきっとそういうことだ。そうしたられいなが自分に関心を持ち続けてくれると思い込んでいる。だからいい子をめいっぱい演じ、心労が積もりに積もってたまに爆発する。りゅうが夜に家を飛び出したとれいなから電話がかかってきて、遅くに探しに行ったことは一度や二度ではない。
 りゅうがを探している最中、見つけられなかったらどうしようと毎回思う。事故に遭ったら? 誰かに連れていかれたら? 最終的にばかみたいに泣きながら探す。でもりゅうがもそれをわかっていて、絶対に見つかる場所にしか行かないのだ。
 なにもかも完璧にできなくて当然だ。成人して随分経つ私にだって、そんなことできないんだから。いい子でなんかいなくたっていい。りゅうがは楽に生きていい。れいなの期待になんて応える必要はない。りゅうがの人生はりゅうがのものだ。りゅうがを見つけると、いつも私はそういったことを泣きながら毎回言い聞かせる。でもりゅうがはしばらく経つと忘れてしまう。まだ大きなトラブルになっていないからこそ楽観できている、というのもわかっている。
 一応この家庭はそれなりの機関にかかって『監視』されているし、専門家に診てもらったこともある。ただそれでも私はふたりが心配だった。

 昨日、映画を観た帰りに渡したいものがあり、彼らの家に寄った。案の定「今日はハンバーグがひとつ残っているので寄っていけ」と言われたものの、私は丁重にお断りした。だってそのハンバーグは日付が変わった今日の朝、りゅうがが食パンに挟んで食べ、れいなが昼の弁当に入れるためのものだからだ。取ってあったハンバーグを快く譲ってくれる程度に、私は彼らの生活の一部になった。
 シュークリーム(※用事)を渡して帰ろうとしたとき、れいなが部屋から出てきてドアを閉めた。りゅうがに聞かれたくない話があるとき、彼女はいつもこうするのだ。そのたび私は身構える。心の中でファイティングポーズを取りつつ、彼女を傷つけない方法を考えるのだ。
「そのピアス、似合うやん」
 私はそのときくすんだゴールドのフープピアスをしていて、我ながら似合っていると思っていた。元々れいなはそういうタイプではなかったらしいが、私が「その服似合うね」、「今日は特にアイライン大成功やん」などといちいち褒めたりするからか、彼女も私にこういうことを言うようになった。すごく嬉しい。まあ多分、言いたいのはそんなことではないけれど。
 そして彼女は少し黙ってから、はっきりした声で私に言った。パートナーシップが導入されたら、私とその制度を使う気はないか、と。
 冒頭に戻る。

 れいなと私は正反対だと少し前に書いたが、れいなは男がいないと生きてゆけず(と、最初の方に彼女が言っていた)、私はアロマンティックで恋愛がさっぱりわからない。でもそんなれいなが私と知り合ってからは「誰とも会ってない」と、りゅうがが言っていた。前はりゅうがをひとりで置いて、夜出かけて帰ってこないということもざらにあったらしい。だからりゅうがは母親に交際者がいるか・いないかをよくわかっていた。
 れいなは時々私のことを「王子さまみたい」と言う。見た目の話ではない。今まで彼女は人に傷つけられて生きてきて、ケアされた経験がなかった。だから私と知り合って、ごくごく最低限の人間としての扱いを受け、いたく感激しっぱなしで今に至るのだ。彼女にとって私は『王子さま』なのだそうだ。
 つらそうなときに家事をやったり、料理を作ったり、夜遅いと迎えに行ったり、りゅうがの宿題をみたり、たまに3人で出かけたり、夜ふたりでこっそりポテトチップスを食べる共犯になったり。そんな程度で私は彼女の『王子さま』になれてしまった。彼女は今まで、どんな風に扱われてきたのだろう。

 今私たちが住む県内では、パートナーシップ制度の導入が複数の自治体で進んでいる。ド保守地域のくせにええかっこしいで他人の目をめちゃくちゃ気にする県民性なので、どこかひとつが導入すれば他も倣うだろうと思っている。だからきっと、いつか私たちふたりにも、その制度を使える日が来る。問題は使うか、使わないかだ。
 もちろん私はれいなのことが好きだ。人間的な意味で。恋愛的な意味ではない。なぜなら私はアロマンティック、恋愛ができないセクシャリティを自認している。過去に無理やり『普通』であろうと恋愛し、交際者を傷つけてきた。私に恋愛のようなものは無理だと悟った。
 でもふたりと家族になりたいかと言われたら、多分それはイエスなのだ。保護者ヅラして何も言い訳せずに授業参観に行ったりしたい。田舎あるあるの「その歳なんだから結婚して子どもくらいいるでしょ」攻撃に「パートナーと子どもがいます」と堂々と答えたい。学校からの連絡が一番に私にくるようにしてほしい。りゅうががもしいなくなっても、れいなはそういうときパニくってダメだから警察から私に連絡が来てほしい。れいなになにかあったときも、彼女の職場からの電話が直接私に来たらいい。
 家族ってなんだろう。れいなの言葉を聞いてから、ずっと考えている。
 もちろん背負わねばならないものの重さは、よくわかっているつもりだ。だからおいそれと「うん、いーよ」なんて言えないし、私は言わなかった。ここで簡単に返事をしたら、ふたりと過ごしてきた時間が一気に意味のないものになりそうで怖かった。
 厳密に言えばパートナーシップは恋愛関係の人間同士が使うものである、という条文のあるところも多い。そしたら、私たちには不適切。少なくとも、私には不適切。でもふたりと家族なのだと法律に認めさせられる、唯一の方法になる。
 条例が作られるかどうかすらわからないのに、先走ってなにを悩んでいるのだろう。取らぬ狸の皮算用。そもそも私は家族に夢など1ミリとて抱いていないと思っていたのに、なぜこんなにも『家族』になるか・ならないかで悩んでいるのだろう。以前の私なら絶対にならないことを選んだはずだ。それが即断できない。私もふたりに、随分変えられてしまった。

 私は返事を先延ばしにしているが、来週も一緒に映画を観る予定をキャンセルできずにいる。言葉にするのが怖いだけなのかもしれない。れいなはその火を飛び越えてきたというのに。なんなら今、彼女はその脚にちょっと火傷をしているのかもしれない。
 私だったら、こんな優柔不断な王子さまは絶対嫌だ。でもれいなって私と趣味真逆なんだよな。そんなことを考えていたら、Kindleにみそ汁をこぼした。やっぱりこんな王子さまは嫌だ。
 れいなが「好きな人ができた」と私に報告する様子を想像してみる。ちょっと嫌だと思ってしまった。れいなはハンバーグ、食べたんだろうか。


Chosen Family

Chosen Family


【次の日の追記】

 このブログを読んだシングルマザーの方からDMを頂きました。
 私は「ふたりの人生にあなたが現れてよかった」と言われて、とても楽になった。ふとした瞬間に「これは自己満じゃないのか?」と思うことがあるからだ。それも何度も。
 正直この国で彼女のようなシングルマザーが生き残るには、残念ながら現状は『男性と結婚すること』が一番話が早いと思う。女性のエンパワメントを掲げて生きていきたい私にだって、このクソみたいな現実は「そう」だとわかってはいる。実際彼女は「生きるために結婚しよう」と考えていた時期の方が多かったと言っていたし、婚活もしていた。

 でも彼女が選んだのは私だった。そもそも恋愛もできなければ、する気もない、この国では結婚もできない同性の、地位も名誉もない、がんサバイバーで、吹けば飛ぶような仕事に就いている、ちっぽけな私。
 私はふたりには既にカムアウトが済んでいて、理解度は違えど私がAロマであることは知っている。恋愛も結婚もないのだとわかっているので、そういった話題を振られることもない。
 でも彼女は私に『プロポーズ』した。私はこの事実を受け止め、深く考えるべきだ。だって客観的に考えたら、絶対に私は選ばれるべきではない。あのふたりがもっと楽に生きていくためには、私なんか絶対選んじゃだめなのだ。
 私はうかれるべきではないし、喜ぶべきでもないし、ちょっと優越感に浸るなんてことは、本当はすべきじゃないとわかっている。でも今の私は、それがやめられなかった。
 記事を書いたあと、れいなと少し話をした。私を選んだ理由をおっかなびっくり聞いた。
「しいて言うなら、絶対に私らをむやみに傷つけんから」。しいて言わなかったらなんなんだよ。言えよ、もっと聞きたいんだけど。

 私たちは考えなきゃいけないことが山ほどある。仮にパートナーシップが導入されたとして、私たちが使うことでりゅうがに何かしら不利益があるのならば、そんなことは絶対に許されない。そして地元の保守感と陰湿さを嫌と言うほど知っているので、きっとこの悪い想像はあながち間違いではないのだ。
 前途多難やな、と言う私にれいなは「ゼントタナンってどー書くんやったっけ」とおどけてくれた。そういうところが好きだ。