月曜日の夕立ちはつめたい

走り出した気持ちが家出して戻ってこないときに書く

好きだった君への果たし状

FANCY

FANCY

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 ああ、多分あいつだ。キンキンに冷えた車のハンドルを握り締めて、私は視線の先でのったりのったりと歩く、ひとりの男を注視していた。その日はいわゆる真冬がはじまったばかりで、久しぶりの冷え込みに世間は参っていた。雪国なので慣れてしまえばそんなもんだが、その冬で最初の氷点下の日というのはやっぱり特別寒く感じる。コストコで買っためちゃくちゃ暖かい毛布をぐるぐる巻きにしていても、マイカーの車内はハンドル同様キンキンに冷えていた。
 あと5分、あと5分経ったら行こう。助手席に目をやると、目玉焼きの描かれた可愛らしい封筒がぽつねんとあった。私はこれを、あの男に渡さねばならない。なんでこんなことになったんだろう。これは生まれてからというもの、一番緊張する出来事だった。
 

 

 私は子どもが大好きだ。
 ド田舎でド保守地域の地元では、たいてい「え、じゃあなんで結婚して子ども産まんの? もう30やん、早く産んだ方が絶対楽やよ」と異常者を見るような目で言われるので、これを言うのはとてもためらいがある。男性の場合は「子ども好きなんや? じゃあ早く結婚して子ども欲しいやろ」。たいていは誰かが産む・産んでもらう前提で話が進む。
 私は子ども好きを名乗っているが、出産を経ての実子の養育には正直興味がない。『子育て』には参加したいが、別にそれについては実子である必要性を感じていなかった。別に母親にならなきゃ育児に参加できないなんてことはない。多分世間の人たちは多様に存在する育児ケースを知らないだけなのだ、ということもわかっている。
 これは仕事柄、さまざまな家庭を見てきたことも大きい。血が繋がっていようがうまく行くときは行くし、行かないときは行かないのである。当然のことだ、みんな違う人間なんだから。
 なんで子ども好きは、絶対に自分の子ども産まなきゃいけないんだろう。そりゃ出生率の問題とかもあるだろうが、保護者を必要としている子どもは世の中にたくさんいるのに。
 
 そんなこんなで、私は人生のかなり早い段階から「子ども持つなら養子か里子だな」と思っていた。そう思っていたので、20代で乳がんになり「この先の妊娠は諦めてください、卵子凍結しますか」と言われたときも、秒で「わかりました、しません」と返事をしてしまい、あまりの即決ぶりに主治医と3分ほど押し問答をする羽目になった。ポーズだけでも悩んでいるふりをするのが正解だったらしい。あのときの主治医の反応を見て、私は世の女性たちにとって妊娠・出産は一大イベントなのだということを改めて知った。私には相変わらず自分で産むという発想がなかったからである。
 
 そしてとにかくドタバタだった乳がんの治療が落ち着いた頃、ふと私は「そういえば『子育て』したかったんだった」と思い出した。そこで突然ではあるが、子育てをはじめることにした。
 まず里子のことを考えた。理由があって親と離れて暮らす保護者のいない子どもを、家庭に迎え入れるのが里親だ。先ほどちらっと書いたが、私はステージ3Cという、もうひとつ進むとステージ4の乳がん患者である。自分で言うのもなんだが、かなり品行方正な患者だと思う。しかしいくら私がおりこうさんでも、私のガンちゃん(治療中に腫瘍にあだ名をつけて呼んでいたら看護師さんがドン引きした)はおりこうさんではない。一応今は10年続くアフター治療の最中ではあるが、この経過観察には定期的にお金がかかる。受入家庭に金銭的な支援はあるものの、そもそも健康上に一応不安を抱えているので、里子を迎えることについて私は不適正だろうなあと思った。
 そうなると、養子ももちろん難しくなる。日本では戸籍上誰かしらと婚姻関係にないと、養子を取るというのはハードルが爆上がりする。そして私はアロマンティックを自認しており、現行の結婚制度の世話になる予定もなかった。そもそも自分の健康に、以下略。
 ということで最終的には「今子育てを頑張っている人を支援したい」というざっくりとした目標に変わった。ラッキーなことに子ども関係の仕事をしているので、そういったことに精通した知り合いも少なくない。何人かに相談したところ、いろいろな団体を通したり、制度を紹介され(そのものズバリの名称を書くとヤサがバレそうなので伏せます)、そして巡り巡って出会うことになったのが彼と、彼女だった。
 今回の記事は、その彼女の『果たし状』を部外者の私が渡しに行った話と、脇に逸れまくった余談の数々だ。
 
 私は『彼』のことを話すとき、便宜上『10歳児』と呼んでいる。実はもう10歳児じゃない。知り合ったときに10歳だったので、なんとなくそのまま10歳児と呼んでいる。あんまりなので、ここは仮に『りゅうが』とする。テンションが上がりきったときの挙動が彼に似ているから。
 りゅうがはダンスが好きな小学生だ。特にTWICEが好きで、新曲が出るたびママがげっそりとした顔で「地獄や……」と呟くくらいにMVを繰り返し見まくり、数日後にはテキパキ完璧に踊りこなす努力家でもある。
 そして『彼女』は、りゅうがの実の母親だ。通称ママ。彼女は仮に『れいな』とする。なんかちょっと似てる気がするから。私よりも年下のシングルマザーで、身寄りらしい身寄りがない。りゅうがを産んでからは特定のパートナーはいたりいなかったり。この家には父親が最初からおらず、りゅうがは自身の父親の顔さえ知らない。れいなは一般企業で契約社員をしている。
 
 初めてふたりの話を聞いたとき、私は「2時間だけ預かってほしい」とだけ言われた。この時点でなにか特別な特性を持ったお子さんなのかな、とぼんやり思った。10歳くらいになると、2時間程度であればひとりで留守番をさせておくというご家庭も多い。要はひとりで置いておけないので預けるのだ。そういったパターンは経験上あったので、さほど気にも留めなかった。
 初めて会ったりゅうがは、絵に描いたような『いい子』だった。大声を出して暴れたり、かんしゃくを起こして攻撃してきたりすることもない。私の目を見て自己紹介ができ、きちんと宿題も済ませ、手洗いうがいも嫌がらない。無理をしている様子もなく、子どもの品行方正を擬人化したような子どもだった。
 私はK-POPが好きで、TWICE好きなりゅうがとは話が合った。「FANCY踊ってや」「誰のパートがいい?」。私たちはすぐに仲良くなった。ダンスを教えてもらったが、私は死ぬほどダンスが下手くそなのでまったく違う動きになってしまう。私の謎の動きを見て、りゅうがは腹を抱えて笑っていた。屈託のない笑顔だった。そのあとはふたりでMVを見て「この曲が好き」だの「この表情がいい」だの、ああだこうだ盛り上がり、2時間はあっという間に過ぎ去った。
 りゅうがは自分を迎えに来たれいなを見た途端、飛びついて「あのね、あのね」と私との2時間を楽しそうに説明していた。しかしそのれいなの表情が、確かに強張ったのだ。相槌では「よかったね」と言っているものの、明らかに顔と態度がそう思っていない。私はその日初めてこの親子に違和感を抱き、ひとつもしかしてと思い至った。
 
 そしてその仮定は当たりだった。挨拶を済ませて帰る段になったとき、りゅうがを車に乗せた後にれいながわざわざ車を降りてこちらに来た。頭を下げたれいなは、こう言ったのだ。
「今日はありがとうございました。変ですよね、男の子なのに」。
 ああ、やっぱり。私は急に緊張した。
 私はそもそもりゅうがをおかしいとは思っていなかった。別にTWICEのことが好きな男の子なんて全世界にごまんといる。カバーダンスをする子だっているだろう。実際YouTubeに山ほど動画がある。私が関わってきた子どもにも、ONCE(TWICEファンの総称)はたくさんいた。
 なにが変なんですか? 男の子なのにあんなダンス踊って、ランドセルだってなんかデコっとるし、選ぶ服もピンクとか多くて。あああああ~……。
 りゅうがは家の中でだけ、キラキラに飾ったランドセルカバーをつけている。校則違反だから、学校にはつけて行かない。そして私が会った日のインナーもピンクだったし、お気に入りだというスニーカーもピンクだった。校則違反だから、学校には履いて行かない。校則違反だから。
 ああ、これあの子の人生の分かれ道かも。れいなの愚痴めいた言葉を聞いて、私の緊張はさらに加速した。私の一言で、れいなとりゅうがの関係性が変わってしまうような気がした。もちろんいい方に転ぶとも限らない。すごくすごく不自然なくらい黙り込んでから、私は意を決して言ってみた。
「産んだ側は複雑かもしれませんけど、子どもの性別を決めるのは子ども本人やし、そもそも子どもだって小さくても別の人間ですよ」。
 れいなは気持ちがすぐ顔に出る。すごく出る。めちゃくちゃ嫌な顔をされた。そしてその夜、鬼のように返信の早いれいなが私のLINEを既読無視した。返信が来たのは次の日になってからだ。
「きついこと言われたから頭きたけど、朝起きてみたらやっぱりあなたの言う通りやと思いました。息子もまた会いたいそうです。よろしくお願いします」。
 それから私はれいなとも友達になった。りゅうがは相変わらず私の前でTWICEを踊るし、りゅうがの性別を私は知らないままだ。
 
 ふたりと仲良くなってから、土日のどちらかに会うようになり、ときには平日の夜も会うようになった。最初はれいなのリフレッシュのために私がりゅうがを預かっていたのだが、そのまま3人でどこかに出かけることも多くなった。餃子を皮から作ったり、一緒に鬼滅の刃の映画を観に行ったり、りゅうがとその友達と私で何時間も鬼ごっこをさせられたり、れいなが緊急搬送されて付き添いをしたり、りゅうが曰く「人生で初めて」川の字で寝たり。思えば結構いろんなことをしている。たまにふと「私ってこのふたりの何に見えとるんやろ」と思うこともあった。
 しかし新型コロナウィルスの影響で、家族ではないふたりと私はぱったり会えなくなってしまった。それでもいわゆる自粛期間中は、ビデオ通話で新しく覚えたダンスを見せてもらったり、ネットフリックスで同じ映画を同時に観たりと、交流を途絶えさせないよう努力した。
 
 りゅうがはダンスが趣味だったが、れいなには趣味という趣味がなかった。趣味に割ける時間と余裕と財源がなかったのはもちろん、彼女は趣味の作り方を知らないタイプの人間だった。インスタでママ友の投稿見ながら寝転んどると、もう風呂入って寝るだけねん。だそう。
 私は映画が好きで、年に映画館で120本ほど観ている。れいなとりゅうがには映画を観るという習慣がなかった。日本の映画料金は高い。土日に映画に行こうと思ったら、引率する大人が1900円、小学生は1000円なので、最低2900円は必要になる。契約社員のシングルマザーにほいほい出せる金額ではない。それもわかっていた。かくいう私も低所得者で、むしろ映画に行くことにしか金を使わないというだけなのだ。ポイントだけは貯まっていたので、月に一度程度一緒にりゅうがを連れていくことくらいはできたが、それ以上は難しかった。
 自粛期間中、れいなは爆発しかけていた。ストレスのはけ口がない。子どもはずっと家にいる。私は来ない。毎日のように電話で「つらい」と言っていた。私はそのつらさが少しでもまぎれたらいいと思ったのだ。私はれいなの誕生日にかこつけて、ふたりにAmazon Fire TV Stickを贈ることにした。実は随分前に間違って2セット買ってしまい、都合のいいことに家に未使用のものがあったのだ。
 そして贈ったあとに知ったが、実はれいなの携帯電話のプランのどうのこうので、プライムビデオが無料で使えた。そして自粛期間中はりゅうがの習い事ができないので月謝分が浮き、そのお金でNetflixも契約できた。突然アマプラとネトフリという文明がやってきて、ふたりはすぐに夢中になった。田舎はテレビのチャンネルが少ない。BS放送や動画配信サイトが見られないと、アニメなんか本当に全然やってない。おしりたんてい、忍たまおじゃる丸……NHKの天下だったところに、突然高度文明がやってきたのだ。
 
 私は自分が映画好きなので、ふたりにも映画の楽しさを知ってほしかった気持ちもある。しかし一番の理由は、映画の中には普段暮らしている中では出会えないような多様な人々が描かれていて、りゅうがにとってもいいんじゃないかと思ったのだ。
 実際りゅうがは何本も映画を観るうちに「俺はこういうのが好きや」というのが本人にもわかってきたらしく、私がツイッターでフォロワーさんに教えてもらった映画を喜んで観ていた。れいなも『愛の不時着』にドハマりしていた。その節はありがとうございます。れいなはママ友の話題についていけるようになり、疎遠がちだったコミュニティに入れるようになったとも言っていた。
 アマプラとネトフリが文字通り生活を救ったのだ。私との共通の話題もできたと喜んでいた。『ハーフ・オブ・イット』観て餃子作りに誘ってくるんだよ? 超かわいいでしょ?
 
 突然「話がある」と呼び出されたのは少し前のことだ。
 ある日れいなから随分かしこまったというか、改まった文面のLINEが送られてきて、私は「金を貸してくれ」とでも言われるのだろうかと思っていた。貸せるお金もなかったので、それだと困るなあと思いつつ、ふたりの家に行く。家族ではないが私はすでにそれに準ずるようなポジションだったので、とっくのとうにふたりの濃厚接触者になっており、てっきり上がってと言われるのだと思っていた。クソ寒い中、れいながそそくさと部屋を出てくる。この時点でりゅうがには聞かせられない話なのだと悟った。
 黙ってれいなが私に見せたのは、InstagramのDMの画面だった。私の知らない男性の写真のアイコンに、知らない名前。文面はごちゃごちゃ言い訳がましいことが連ねてあったが、端的に言えば「りゅうがに会わせてくれ」というものだった。送り主はりゅうがの生物学上の父親であり、れいなの元カレである。
 りゅうがは父親の顔を知らない。最初からこの家には父が存在しなかった。つまり、この父親を名乗る男はりゅうがを正式には認知していない。書類上の父親ですらない。私は思わず聞いてしまった。
「え、こいつ本当に父親なん……?」
「顔見たらわかるよ、うちら足して割ったらりゅうがになるから」
 見ると男は公開アカウントで、顔写真を普通に載せていた。まあ確かに、似ている。見れば見るほど似ていた。そしてどうやら妻帯者のようだった。なんやこいつ。れいなは本名でインスタをやっていたが、幸いなことにずっと非公開アカウントだった。りゅうがの顔写真も載せていない。そしてこれ以外SNSはやっていないという。名前とアイコンの写真でアタリをつけて、DMを送ってきたようだった。
 最初に私の頭をよぎったのは「このご時世に会いたいとか言い出すなんて、とりあえずマトモなやつではないやろ」ということだった。
 
 れいなに聞いたところ、交際していた当時は共通の友人もいたので、れいなが出産したこと自体は男も知っていたらしい。前にそもそもなぜシングルで産み育てることになったのかと訊ねたら、男が妊娠に怖気づいてある日突然蒸発したと言っていた。ほら、マトモな人間じゃなかった!!
 なんとなくただの勘でしかなかったが、私は「こいつ正式に認知する気も、養育費払う気もねえんだろうな」と思った。インスタの投稿でなんとなく職業が知れたし、ざっくりコメント欄で交友関係も洗えた。ふんわ~りした感じで言うと、おそらく勧誘ノルマ的なものがある仕事だった。これやろ、目的絶対これだわ。しかも県外在住。えっわざわざ来るんか!?
「どうしよ、会いに行った方がいい?」
 れいなは血迷っていた。文面に「渡したいものがある」と書いてあったからだ。いったいそれがなんなのかは見当がつかなかったが、正直なところ家庭環境的に、貰えるものならなんでも貰いたい。しかしながら何が貰えるともわからないのに、彼女を危険に晒すのはいかがなものかと思った。認知もしていない子どもを口実に持ち出してくる時点で、私の中ではこいつへの好感度は地を這っていた。
 私はれいなに「絶対に鍵を外すな」「リクエスト許可するな」「ていうか返信するな」と念押しし、自分のサブアカウントでその男をフォローした。これは男を見失わないためだ。日常生活においての知り合いに「アカウント教えてよ~」と言われた際に使う、いわば擬態アカウントだった。空の写真しか載せていない。名前もギリギリ嘘ついてない、くらいなので、私の本名も割れない。
 その日はそのまま案件ごと持ち帰り、延々と考えた。前に一度話の流れでりゅうがが「別にパパに会いたいと思わん」と言っていたのを覚えていたからだ。
 仮にりゅうがが会いたいと願うならば、それは叶えてやりたいという気持ちもある。しかしそれにしたってりゅうがはまだ子ども過ぎる。自分の身を自分で守ることもできない。不用意に会わせてなにか弱みを握られでもしたら? ていうか責任も持たずに蒸発した男、正直れいなにだって会わせたくない。きっとこれは考えすぎではないと自分に言い聞かせて、いろいろなパターンを想定した。そもそも、私、一番部外者だよな。血も繋がっていなければ、ふたりと書類上繋がりがあるわけでもない。
 それでもれいなが頼ってきたのは私だった。いやもう、やるしかないやろ。
 
 私はふたりに意思確認をすることにした。
 
れいな:むしろ会いたくない。今会ったらぶん殴りそう。もう二度と関わり合いたくない
りゅうが:パパは最初からいないので、特別会いたいと思わない。ママを辛い目に遭わせた人
 
 結論としてはふたりとも【会いたくない】らしい。会いたいと思っているのは男側のみ。この時点でふたりを会わせるという選択肢はなくなった。しかしながら、わざわざ探してSNSでれいなに接触してきたという気色悪い事実は残っている。最終的に私が思いついたのは「代わりに私が会いに行く」というシンプルな策だった。
 まずドイツで法律家の卵をやっている友達に泣きついて、私がたまたま持っているWannaOneのサイン入りCDと引き換えに、私の考えた案を見てもらった。それから私はれいなにDMの返信を指示した。嘘はついていない、しかしれいなが会いに行くとは書いていない。そういう文面を作って、彼女に送らせた。
 次にれいなに思いの丈をつづってもらった。これが『果たし状』だ。目玉焼き柄の可愛い果たし状。果たし状であり、絶縁状でもある。書いている様子を隣で見ていたが、とてもしんどいことを頼んでしまったと私は反省した。そのくらい、この男はこのふたりの生活に影を落としている。そもそもこいつが現れなければ、ふたりはこんな苦労もせずに済んだのだから。
 案の定、男は元気にDMに返信してきた。最初はとあるファミレスを指定されたが、この時期に面識のない人間の前でマスクを外して飯を食うなんて冗談じゃない。なんでこいつと濃厚接触者認定されないといけねえんだよ。仮に感染者としてニュースになったとしたら、私はこいつの知人女性になってしまう。私は男をショッピングモールの休憩コーナーに呼び出すことにした。
 そして、冒頭に戻る。
 
 私は男のフォロワーとして投稿をチェックしていたので、もう完璧に顔を覚えてしまっていた。なんか熱心なフォロワーみたいですげえ嫌だ。
 後から見せに行ったられいなとりゅうがには爆笑されたが、私は私なりに変装した。抗がん剤治療をしていた頃のウィッグをかぶり、何年ぶりかにアイプチをし、普段しないメイクをして、もう捨てようと思っていた服を着た。時節柄、マスクも外せない。万が一どこかですれ違っても、私だとは気づかないはずだと思ったのだ。
 男が降りてきた車のナンバーも一応チェックしてから、5分後に入店し約束の場所へと向かう。そこには座ってスマホをいじっている男がいた。最近毎日のように顔を見ていた男だったので、私は迷わずそのテーブルへと歩み寄る。私がべったりと横付けして、初めて私の存在に気づいたようだった。
「――この会話は録音してます! れいなは来ません!」
 声がひっくり返りそうになる。何を隠そう、私は結構ビビっていた。こんなイカれた状況、怖くないはずがない。いくら私が普段男性に強く当たられないタイプだとしても、今から初対面の男性を相手に確実に機嫌を損ねるようなことを言うのだ。
 しかし男が顔を上げて目が合った瞬間、なぜか急に緊張よりも怒りが勝ってしまった。私は怖がってもいたが、なにより頭にきていた。私の友達がつらい目に遭っている諸悪の根源は、よくよく考えなくとも明らかにこいつにあったからだ。
「は? 誰お前?」
 ごもっともだ。録音音声かな? というようなことを見ず知らずの人間が言いに来たんだから。しかし私の機嫌だっていいはずがない。こっちが敬語で下手に出たにも関わらず、タメ口きいてきやがってこの野郎。その反応に私は余計に腹が立った。自分の機嫌は自分で取るが、こいつの機嫌まで取る必要なんてない。
 私は椅子を引き出して、男の斜め前に座った。これみよがしにICレコーダーを机の上に置く。実はスマホでも録音していた。ショッピングモール内なので監視カメラもあるし、最悪叫んで逃げれば誰かしらが気づいてくれる。このとき、私は謎の自信がわいてしまっていた。今思うと自分が怖い。あれなんの自信なんだ。
「◯◯さんですよね。私はれいなの友人です」
「れいなは? りゅうがは?」
「来ません。ふたりは会いたくないと言っています」
 世間話をする気にもなれなくて、私はとっとと本題を切り出した。男は私を睨みつけて、とても大きな音を立てて舌打ちをした。子どもみたいな人だな、そう思った。
 
 自粛期間中に観た映画の中で『好きだった君へのラブレター』というティーン向けの恋愛映画があった。ツイッターで教えてもらって、りゅうががドハマりした映画だ。ネトフリ限定配信の作品で、今は2作目まで観ることができる。
 好きな人ができると、その人へ秘密のラブレターを書いてクローゼットにしまっていた主人公のララ・ジーン。ある日そのラブレターがなくなった。実は妹がこっそり投函してしまったのだ。気づいてからがさあ大変。あらぬ誤解を解こうと奔走する羽目に。しかしひょんなことからその手紙を受け取ったひとりである人気者のピーターと、ララ・ジーンの利害が一致する。ふたりはフェイクカップルを演じることになって……という、フェイクがマジになるというベタ中のベタなやつだ。
 もう何度も観ている。実は私も好き。りゅうがと何度目かにこの映画を一緒に観たとき、隣でれいなが『りゅうがの父親』の話をはじめたことがあった。蒸発が最初信じられなくて、産めば帰ってきてくれると思っていたこと。捨てられたことを認めたくなくて、りゅうがが3歳になる頃まで彼の荷物を捨てられずにいたこと。彼がたまに夢に出てきて、夜中にうなされて起きること。
 私はAロマだし、恋愛についてはからっきしだ。それでもれいなにとってその男は、きっと『好きだった君』だったんだなということは理解できた。
 
「会いたくないって言ってんの?」
「はい、会いたくないそうです。私はあなたがやったことを知っていますし、どこにお勤めかも知ってます」
 男はもごもごと口ごもった。それってあっち(※れいなのこと)の言い分しか聞いてないだろ、みたいなことを言っている。しかし妊娠した彼女にすべての責任を押しつけて遁走した男がなにを言おうと、正直言い訳にしか聞こえない。そして実際言い訳なのだ。急に態度が変わった。
「今日はなんのご用事でしたか?」
 本当は弁護士だとか、警察だとか、もっと頼るべき人たちがいたと思う。けれども弁護士に頼るお金もなければ、警察に出向く時間もなかった。だから私は必死に考えて、男がなにか危害を加えてこようものならば、男のインスタにコメントしている『いつものメンツ』に、こいつが過去にやってきたことを暴露してやろうと心に保険をかけていた。インスタを見る限り嫌なホモソーシャルに浸かっていて、女性をトロフィーにすることについて抵抗がなさそうな人たちに見えた。きっと見栄を張って、今の家族や友人たちにはれいなのことは伏せていると踏んでいたのだ。
 私は用事はなんだと言いながら、れいなから預かった例の『果たし状』を男に差し出した。れいなの字で『◯◯くんへ』と書いてある。その字を見て男はピンときたようだった。男は私の様子を窺いながら、そろそろとその手紙を引き寄せる。もっと横柄かと思ったが、意外に小心者らしい。しかしまあもっと神経が図太ければ、これよりも早く接触してきていただろうと思う。れいなとりゅうがが二人きりの頃でなくてよかった。
 そして男は黙って手紙を読んでいた。次第にその顔が真っ赤になっていった。
 
 私は手紙の内容を知っている。認知して養育費を払ってくれないのならば、今後も関わりたくないので認知すらしなくていい。りゅうがに元々父親はいなかった、会わせる気などない……ということをとにかく丁寧に書いてある。「関わったときは私の存在を今の家族と会社に知らせる」という文言も入っていた。どうやら読み通り、今の家族や友人には別に子どもがいることは秘密にしているらしい。かなり堪えているように見えた。
「なんだよこれ……」
 その漏れ出た言葉はこのあたりの人の言葉遣いではなく、本当に遠くから来たのだと思った。そのまま遠くにいてほしかった。男は最後まで読み終わったあと、便箋をくしゃりと握り潰して、手で顔を覆ってしまった。
「手紙にもある通り、今後彼らに関わった場合はそういった処置を取らせてもらいます。あと私は書き物をするので、これを記事にしようと思っています」
 その記事がこれだから、まあ嘘は言っていない。録音音源もあるし、いざとなったらこの記事と音源をしかるべきところに提出すれば、なんとかなるんじゃないかと思っていた。記事にすると言った途端、男は目に見えて慌てはじめた。みっともなかった。
「自衛のためなので、お名前を伏せて書くつもりですけど、名前を出されたくないのでしたら今後関わらないことを今約束してください」
 私はこれみよがしにICレコーダーを手に取って、男の前に突きつけた。正直言うとこの時点でもう充電が切れそうになっていて、とっとと言質を取ってしまいたかったのだ。
「……関わりません、すみませんでした」
 男はくしゃくしゃの手紙をテーブルに置いたあと、胸元から一枚の封筒を取り出し、小さな声でそう言うとそそくさとテーブルを立って行ってしまった。
 びっくりした。呆気なかった。あんなに気を揉んでいたのに、実際は5分で終わってしまった。
 私の車を見張られていたら嫌なので、時間を稼ぐために私はその後そのモールで映画を観た。もう内容が全然思い出せない。
 
 結局男から渡されたその封筒は、れいなと一緒に開けてみた。なにが入ってたと思います? 家電量販店のギフトカード。それもたった1万円分。1万円分て。テメエふざけてんのか、くらい言ってやればよかった。あと案の定、ネズミ講のお誘いを書いた直筆の手紙が入っていた。証拠にしたくて写真撮ったあと、即破いて捨てたけど。
 りゅうがから父親という存在を永遠に取り上げてしまうことに、私は内心抵抗があった。私は性善説を信じて生きていたい人間なので、心のどこかではあんなかわいい子どもを見捨てる親なんていてほしくないと思っていたのだ。まあ、幻想だったけど。子どもひとり育てるのに、どれだけお金がかかることか。それをたった1万円ぽっちの金券を手切れ金みたいに置いて行きやがって。
 あんまり似合わないウィッグをかぶったまま私が怒っていると、りゅうがとれいなから抱き締められた。車の中はずっと寒かったのでそれが本当に暖かく、私は少し泣いてしまった。本当に泣きたいのはふたりのはずなのに、なんで私が泣いてるんだろう。思い切り抱き締め返したら、私の馬鹿力で折れると騒がれた。被害者でも加害者でも、新聞沙汰にはなりたくない。
 
 ギフトカードって、ネトフリのプリペイドカード買うときに使えるんだろうか。1万円の使い道はそれがいいんじゃないかとれいなと話している。りゅうがはこれからも沢山の映画を観て、あの男が知らない世界を知っていく。せめてそのために使いたいと思った。
 正月は3人で『羅小黒戦記』を観に行こうと約束している。もういくつ寝るとお正月だろうか。私が一番楽しみにしている。 
 
 
【追記】
 今回たまたま私は無事に生還できましたが、大変危ない橋を渡った自覚はあります。一応この後しかるべき機関に指示を仰ぎまして、万が一二度目があった場合のために、素材を揃えて通報する段取りをしています。残念ながら接触が一度きりですと、通報しても取り合ってもらえないことが多いそうです。腹立つわあ〜!!
 乗りかかったどころか完全に乗り込んでしまった船なので、ふたりが安全に、楽しく、幸せに暮らせるよう、これからも私は努力してゆきます。
 
f:id:sonagionmonday:20201224200341j:plain 添付画像:画素数の粗いTWICE先輩が10歳児にウケた図