月曜日の夕立ちはつめたい

走り出した気持ちが家出して戻ってこないときに書く

そばかすの君へ、そばかすの私より

映画「そばかす」の舞台挨拶の様子。壇上には主演の三浦透子

 ホリデー・シーズンだ。Netflixを開くと、男女らしきふたりがにこやかに並び立つ、赤と白と緑のサムネイルばかりが目に飛び込んでくる。そのまま放っておくと勝手に予告が再生されるが、誰かと別れた旅行先でまた誰かと出会うだの、クリスマスまでに彼氏を作らないと死ぬだの、だいたいがそんな感じだ。
 恋愛をしないと、意地を張っているとみなされる。モテないことの言い訳だと言われる。淋しいやつだと見下される。ロマンチックイデオロギーが猛威をふるう、恋愛をしない人間がどこか肩身が狭い季節である。
 そのようなドラマや映画が視界に溢れてうんざりするのが例年の12月なのだが、今年の私は違う。今年の私には『そばかす』がある。この世にあの映画がある。【私たち】を語る作品がある。そう思うと、なんだか気が楽なのだ。


 2022年12月16日、三浦透子主演の映画『そばかす』が公開される。この映画の主人公はアロマンティックアセクシャルの女性である。
 2年前の秋のことだ。ある日、脚本家のアサダアツシさんから「話を聞かせて欲しい」といった旨の連絡をもらった。DMを読んだ私の第一声を、自分で今でも覚えている。シンプルに「なんで?」だった。アサダさんとは接点らしい接点がなく、ただのツイッターにいる人に過ぎない私は、本当になぜなのか、マジでわからなかった。
 そして2年後、今年の秋。ついに私は泣きながら、104分間を過ごすこととなった。


notheroinemovies.com

 アサダアツシさん(以下、アサダさん)は、2020年1月に公開された今泉力哉監督作品『his』の、企画と脚本を担当されている脚本家だ。『his』は地方に住むゲイと、昔の恋人と、その昔の恋人の子どもが主軸となった恋愛映画で、前日譚のドラマもある。
 『his』はクィアが主軸の恋愛映画としては、公開館に東宝系列が入っていて公開規模もそこそこだったし、監督が監督なので話題にもなったし、当時の映画におけるクィアを取り巻く状況下では秀作だったし、今は配信もあるので、ご覧になったことがある方も多いのではと思う。
 私の地元では『his』が公開日に観られなかった。ド田舎なのでミニシアター系は基本数ヵ月遅れで、TOHOシネマズ自体がひとつもないからだ。ただあの今泉力哉がゲイカップルを撮るということで、情報解禁当初からずっと気にしていた。そして隣県にはTOHOシネマズがあるので公開日に観られることがわかり、えいやと一念発起してお隣の県に観に行ったことを覚えている。私の住んでいる地方の冬は、1月に隣県へ移動するだけでもかなり骨が折れるのだ。結構、頑張って観に行ったのである。
 結果的に私の「えいや」は間違っていなかったと思った。当時の私はあの映画を観て「いいな」と思ったし、その「いいな」を誰かに伝えたいと思った。だから雪の中、家にも帰らず、映画館が入っているショッピングモールのフードコートで、当時使っていたnoteに映画のレコメンド記事を書いた。……1万字くらいの。今思うと、公開日に1万字も書くやつがあるか。
 そして恐ろしいことに、そのnoteが製作陣の間でちょっとだけ話題になったらしい。監督や監修の方からも反応があり、企画・脚本のアサダさんには「感想を読んで泣きそうになったのは初めて」と言っていただいたりもした。
 そう、私とアサダさんの接点らしい接点と言えば、これしかなかった。

 私は『his』を観てからアサダさんのツイッターをフォローしたが、この間において、アサダさんの真摯な態度にクリエイターとしての信頼を寄せていた。社会的に立場の弱い属性のコミュニティが攻撃を受けたときや、プライド月間など、ちゃんと言葉で寄り添うことを発信してくれていたからだ。
 こんな人、私が見えている範囲では、製作する側の映画人にはほとんどいなかった。

 今年は、脚本を担当された『チェイサーゲーム』で、キャストにトランス男性を起用し、シス男性としてではなくトランス男性として、アイデンティティを尊重したキャラクターを物語に登場させたりしている。演者の俳優さんも、撮影時にアサダさんの言葉に救われたとコメントしていた
 日本の観客は、日常茶飯事的に裏切られがちだと思う。「これを撮る人なら信用できる」、「これを書く人なら大丈夫だ」とクリエイターを信じて、次回作を観て裏切られることがよくある。本当によくある。そして相手は人間なので、信じる方が間違っているというのは、建前上はわかっているのだ。
 ただクィアコミュニティという場所においては、少し勝手が違う。コミュニティの外にいるとなかなかわからないかも知れないが、自分たちを受け入れ、連帯してくれる存在というのは、本当に、切実に必要なのだ。誰かに対して【信頼のおける人間】という肩書きが求められているように思う。藁にもすがる的なニュアンスでね。

 最近は「そういう人(※性的マイノリティのこと)もいるよね、多様性だよね!」といった言説が浸透してきたように思うが、そういう「多様性だよね!」で片づける人の中には、本質を見ないで「まあみんな違うから(差別とか権利とかめんどくさいことグダグダ言わないで欲しいんだよ)ね!」で片づけて、思考停止している人が少なくないと感じる。そもそも「時代だよね」という言葉もそうだ。昔から存在していたのに、そういう人たちにも恋愛や生殖を押し付けて、その人たちをいないことにしてきただけだってのに。今も昔も面の皮あちいなあ。
 マイノリティがどういう風に息苦しさを覚えているのか、実質的に生きる権利を阻害されているのか、【普通の人たち】がしなくていいはずの無駄手間を強いられているのか、それを知ろうとせずに「みんな違って、みんないい」とどっかの誰かのようなことを言い、本質を知らないまま脇に置いて見えないようにカバーをかける。そして人間は脇に置くと、そう、忘れるのである。自分んちが燃えてなかったら、どっかの家の火事なんてすぐに忘れるのと同じ原理かも知れない。

 ここまでピンと来ていない人もいるかもわからないが、実際に「そういう人もいるよね、時代だよね~」と口では言うくせに「彼氏は?」、「結婚は?」と、社交辞令だから聞いても許されるような顔をして、面と向かって訊ねてくる人間はいくらでもいるということだ。
 掛けられるのは当事者に寄り添うための言葉ではなく、その実「自分は差別主義者じゃありません」という保身の言葉ばかりで、正直にカムアウトすることも馬鹿らしくなってくる。
 私たちには「おかしい」と干渉してくる人間や構造が多すぎる。恋や、セクシャルな欲求が人生に必要ないだけで、なんでおかしいことになるのだろう。「恋愛感情がないとか、わからない」と言われたことも一度や二度ではないが、こちらから言わせてみれば、なにがわからないのかがわからない。
 私の人生に恋愛が必要なくて、なぜあなたが困るのだろう?

 そして私は、アサダさんは【そうじゃない】と思っている。
 アサダさんからしたら、こんなことを書くと大変プレッシャーだと思う。下手をすると営業妨害になったりするのかも知れない。ただ私は「この人は私を不用意には傷つけないな」と『his』を観てから、ずっと思っていた。だから取材の打診があったときも、自分にできることがあればと喜んで協力した。
 なぜ映画のレコメンド文の冒頭に、こんなことを書いたのか。アサダさんがどういった姿勢のクリエイターなのか、知って欲しいと思ったからだ。
 もちろん、Aスペクトラム(アロマンティックやアセクシャルを包括する概念)の人間が、皆まったく同じなわけではない。ていうか、同じはずがない。個人の集合体なんだから。だからきっと『そばかす』が必要のないAの人間もいることだろう。
 けれども、この『そばかす』を観るために、また傷つけられるかも……と、ファイティングポーズを取っているアロマンティックやアセクシャルの人たちへ、私から伝言を残したい。少なくともアサダさんは、今の私が知る限り、自分の創作物に対してそんな不誠実で理不尽な人ではないです。
 この記事は、それを伝えるために書いている。

 まず、私の自己紹介をしておきたい。私は女性として社会で暮らしている、Aスペクトラムのうちアロマンティック(Aロマ、アロマ、Aro)とアセクシャル(Aセク、アセク、Ace)を自認している一般人だ。
 この『そばかす』のプロモーションでは、アセクシャルという言葉のみが使われているようだが、そのアサダさん本人が「そばかすはアロマンティックでアセクシャルな主人公」と明言しているので、この記事ではそれを踏襲する。

 一般的に【アロマンティック・・・恋愛感情を抱かない人】、【アセクシャル・・・性的欲求を抱かない人】と定義されている。
 しばしばこれを一緒くたにまとめてアセクシャルと言うことがあるが、片方があって片方がない、両方ともない、はたまた……といった、さまざまな人たちが存在する。今はSAMという考え方もある。*1 まあみんな違うんだから、これも当たり前だ。
 いわゆる【普通の人】と喋っていると不思議に思うが、世の中には恋愛の先にはセックスがセットだと思っている人が少なくない。ていうか、かなり多い。なんでだろう?
 どっちもいらない立場からすると、正直「そんなめんどくさいこと、よくふたつもやろうと思うな……」と思う。せめてどっちかじゃダメなん? ダメなんだろうな。わかんないけど。
 私はたまたま恋愛感情と性的欲求、どちらも持ち合わせていないので、この記事ではいつも通り「AロマでAセク」と名乗ろうと思う。

 最初にアサダさんからお話を聞いたとき、この映画『そばかす』は、本当に企画段階だった。キャストはおろか、どういった風に世に出るのかすらも決まっておらず、いわゆる本当に初期の初期、情報収集のフェーズだ。
 アサダさん曰く『his』を作っていた当時からアセクシャルについては関心があり、このテーマで映画を作りたいと考えているが、まだ誰にも言っていない……ということだった。
 待って待って待って? なんで私にそれ言う? え? なんで? そりゃあそうなるだろう。DMを読んだ私は軽くパニックになった。多分、今これを読んだ人もそう思うんじゃなかろうか。こいつそんなことしてたのかよ、と思うだろう。そうです、あなたのそれは正解です。
 そこからDM、メール、そしてZOOMと、何度も私のしっちゃかめっちゃかな話を聞いていただく機会をもらった。本当に「なんの話?」といったようなこともペラペラ話してしまったが、アサダさんは私の「なんの話?」を真摯に聞いてくださって、完成した映画を観たときには「もしかして……あれか……?」と思うシーンもあったりした。
 しかし、もちろんだが、私以外の当事者にもたくさん取材をされている。きっと多かれ少なかれ、当事者は同じような経験をするのだなあと思った。まずそれだけでもこの映画が存在する意義がある。
 「どっかおかしいんじゃないの?」なんて言われがちな私たちも、けしてひとりじゃないのだ。そう言ってくれる。

 以下に当時、私がアサダさんに送ったメールの文面を、ちょっとだけ貼ろうと思う。

(AセクでAロマの人と結婚、もしくは人生を共にしていく場合、相手も同じセクシャリティでないと成立しないと思うか、という質問に対して)

(略)
 正直なことを言うと、結婚を選択する場合、ラクに生きていけるのは同じセクシャリティで付き合うことだと思います。AロマやAセクでもひとりひとり違うのは当然ですが、理論的な部分じゃなく感覚的な「これ嫌だよね」だとか「これはわかる」みたいなものを共有するのがラクだから、という意味です。だから【他のセクシャリティの人と付き合う】のは、できないことではないとも思います。
 ただそれを乗り越えても一緒にいるメリットがあるような相手だったり、一緒にいたいと思うような相手なら努力する甲斐もあると思いますが、私にはできないです。正直めんどくさいのが本音です。

 違う人間同士が付き合う交際には、譲歩が必要です。仮にそれが恋愛のできる人が相手だと、マイノリティはこちらじゃないですか。そうすると1対1なら個人の理解で突き詰めてゆく努力を惜しまなければいい……とは思うんですが、外からの圧力や、世論や、一般論といった声を一切気にせず交際するということは、現状日本では無理だなと思っていて。お互いで理解していたとしても、社会構造がストレスをかけてきます。
 それを一緒に乗り越えてゆこうと思えるような人に出会えるとも思えませんし、私には無理ですね。そしてすごく人でなしっぽいんですが、そもそも努力してまで他人に合わせて誰かと一緒にいたいと、私は思えないです。

 わろてまうわ。正直すぎる。
 これが2年前の私。こんなようなことを(ちょっとした短編小説みたいな文量の)メールで送ったり、ZOOMで顔を合わせて聞いていただいたりした。今読んでも、あんまりにも私らしすぎて笑ってしまう。私はこういう人間だったし、今でも少なからずこういう人間だ。

 そしてそろそろ映画のプレゼンをしたいのだが、断っておくと私はすでに一度観てしまった側の人間なので(たまたま出先で舞台挨拶付きの試写があったという奇跡、ありがとうケンタとサンギュン)、内容について完全なネタバレなしでは話せないと思う。展開もニュアンスも知りたくないという人は、この記事をこれより先は読まない方がいい。そしてこの映画には物語のシステム上、Aスペクトラムに対するいくつかの加害描写がある。



 蘇畑佳純(そばたかすみ)は30歳、浜松の実家暮らし、恋人もいない。欲しくもないし、恋愛をしたいとも思っていない。だからと言って別に人生が楽しくないわけでもない。この主人公を『ドライブ・マイ・カー』のドライバー・三浦透子が演じている。
 この映画の中で、佳純は一度もスカートを履かない。家族が色恋沙汰で喧嘩していても(予告にあるシーン)、平然と酒を飲んでいる。この映画は佳純が合コンに参加している様子からはじまるのだが、もちろんまったく乗り気ではないので、おしゃべりもせずにもくもくと料理を咀嚼する。佳純はそういう人だ。
 そんな佳純には、いわゆる【普通の幸せ】を当然と享受して暮らしている家族がいる。特に母は30歳の娘に彼氏がいない、結婚していないということで気を揉んでおり、いまどき勝手にお見合いをセッティングする暴挙に出たりする。明確に、男っけのない娘のことを「おかしい」と思っている。
 そのお見合いで知り合った「恋愛なんて」という男と、佳純は気の置けない友人同士になるが……。

www.youtube.com

 この映画の中には、一度もアロマンティックやアセクシャルといった単語が出てこない。
 当事者としてはあって欲しかったとも思ったが、あとから考えてみるとそこを限定せず、広く「私の話じゃね?」と思えることは大事なんじゃないかと思った。Aスペクトラムと一口に言っても、AroやAce以外の人もいる。佳純はそういったAスペクトラムの要素を持ち合わせたひとりの人であり、インターセクショナリティを可視化した存在でもある。実際、いわゆる当事者の人が観れば、開始2分くらいで「あ、これ私の話だな」と思うんじゃないだろうか。
 あとこれは余談なのだけど、この『そばかす』は「私は私」という話なので、佳純の生き方について、ノンバイナリーやAジェンダー*2の方もエンパワメントされる部分があるのでは、とも思っている。ただし私は当事者ではないので、もし機会があれば当事者の方の感想が聞きたい。

 再三になるが、アロマンティックにもいろいろな人がいる。そして私には、佳純は【「好き」のタイプが1種類しかないアロマンティック】に見えた。友愛だとか親愛だとか、好意の種類の区別がなく、好きが全部同じで、めっちゃ好きか、そうでもないか、というメーターが1本しかない。そして私もこれに近い。
 この記事ではしつこいくらい【私は】と強調しているが、それを書かないとまるでAスペクトラムは「みんなこうです」と解釈される可能性があるからだ。そもそも、教科書になるような指標がない。わかりやすく記号化した方が楽だから、おおざっぱにまとめられてしまう。そして結局困るのはまとめた方ではなく、まとめられた側=マイノリティだ。

 しばしば、アロマンティックの「人を好きになれない」という言い方は、恋愛を好む人たちから勘違いされることがある。「人を好きになれないだなんて、冷たい人間だ」といったようなものだ。確かに私は特定の人間以外には冷たいこともあるが、それは私の話であって、アロマンティックが皆そうであるわけではない。
 Aロマの言う「人を好きになれない」というのは【人に恋愛感情を抱かない】という意味であって、けして【愛情がない】という意味ではない。恋愛ができる・恋愛が必要な人たちにだって、恋愛的な意味じゃないけど好きな人……なんて、いくらでもいるだろう。
 この『そばかす』では、佳純がきちんとひとりの人間として尊重されている。子どもに関わる仕事について「子どもは好き」と言っていたり、自分はその制度や行為が必要なくとも、人の結婚については「おめでとう」と心から祝える。
 佳純は冷たくなんかない。彼女は人の在り方や、幸せを否定しない。結婚しないからといって、みんながみんな【結婚を選択する人】を憎んでいるわけではない。私たちは別々の人間で、別々の選択があって当然だからだ。

 そんな血の通った佳純ではあるが、彼女は常にロマンチックイデオロギーに足を掴まれ、引っ張られ、それに抵抗しながら暮らしている。本当に佳純は恋愛が「どうでもいい」のだ。そういう概念がこの世に存在することは知っているし、大半の人たちが信仰しているのもわかっている。それが「必要ない」だけなのに、絶えずロマンチックイデオロギーの方が佳純を追っかけてくる。
 私が感心したのは、同級生の男からゲイだとカミングアウトされるシーンだ。予告にもある。詳しいことは触れられないが、どこかのコミュニティからはみ出してしまい、浜松に帰ってきた同級生が「自分はゲイなのだ」と、佳純へなんでもないように告白する。彼の心中はわからないものの、きっとそれはなんでもないようなこと……ではないはずだ。そのカムアウトを佳純は「そうなんだ」と、すんなり受け入れる。佳純の周りで、初めてクィアが可視化された瞬間だ。
 しかし同じクィアであるはずの同級生も、男性を愛する男性として、ロマンチックイデオロギーに振り回されているひとりなのである。彼のとある一言で、佳純は「この人は違う村の人だ」と気づく。
 世間では【クィア】の代替語句として使われがちな【LGBT】という言葉のうち、L(レズビアン)とG(ゲイ)とB(バイセクシャル、ていうかバイロマンティックかな?)というセクシャリティは、アイデンティティを確立する要素として、恋愛対象の性別が重要になる。つまりざっくりと言えば、このお三方は恋愛を必要としている人たちなのだ。

 同じLGBTQ+と言えど、Aスペクトラムは人を好きになるタイプのクィアからは、無意識に差別されることもある。恋愛をしない人のことを「理解できない」とかなんとか言い出す人というのは、なにも異性愛者だけではないのだ。
 欧米の先進的なクィアストーリーのドラマや映画を観ると、クィアは互助会のように助け合わされがちだ。しかしその互助会の中では、恋愛のできる人間がヒエラルキーの上の方にいることがほとんど。特に「パートナーがいてこそ一人前!」という規範の強い国や地域の作品では、パートナーを持たずに生きていきたいAスペクトラムというのは、ほとんどが可視化されない。
 そのため、ときおり無邪気にぶつけられる「同じLGBTの人なんだからわかり合えるでしょ?」という決めつけには、本当に辟易としている。そんな簡単にわかり合えるわけがない。だって違うんだもん、こめかみに指でも当ててビビビっとでもやりゃええんか。

 いわゆるLGBTQ+の人々が、さまざまな性的アイデンティティに対する差別に連帯し、いつも声を上げることができるのは、普段から相互理解しようと勉強しているからだ。クィアには勝手に知識がインストールされるといった、便利な特殊能力なんてものはない。ただただ、勉強してるだけ。だから理解度というのも人それぞれで、ズレが生じているのも事実だ。
 いつまで経っても姉が恋愛をしようとしないので、異性愛者の妹が「レズビアンなんでしょ」と佳純にぶつけてきたりもする。「姉は性的マイノリティかもしれない」というところまでは想像が及ぶのだが、ロマンチックイデオロギーの教義と無知が邪魔をして、妹はそれより先に行けないのだ。

 今年Netflixで配信されて話題になった『ハートストッパー』には、一応Aスペクトラムのキャラクターが存在した。チャーリーのきょうだいのトリと、ドラマオリジナルキャラのアイザック。ちなみに作者はAroでAceだ。ただふたりがAスペクトラムたらしめる表現というのはドラマ内にほとんどなくて、やっぱりメインは男性同士の恋愛なのである。
 ……話がズレるけれど、ハートストッパーの感想で「あんなにクィアがいるはずない」といったものがあったが、そういうこと言う人にはまずカムアウトしないし、最低限理解することを努力してくれそうな人と一緒にいる方が安心なので、あのクィア大集合は「割と普通」であり、おかしく見えるというのはある意味「らしい感想」だなと思った。あんたに見つかりたくなくて隠れてんだから、見えないで当たり前やん。余談終わり。

 例えば、ホールケーキがあったとして、それをクィアの人々で分け合うとしよう。そうなると最終的にAスペクトラムに回ってくるケーキというのは、うっすくて自立できないような、下手をするとスポンジもなくてクリームだけ、とか、そんなようなケーキだったもの……なのである。甲子園球場のビジター席よりもっと少ない。私たちはいつだって好きなときに、好きなだけケーキが食べられるべきなのに。
 私なんて、どこにだっている人間だ。そんな【どこにだっている人間】のはずなのに、いつまで経っても「いる」と認めてもらえないし、いること自体を知ってもらえない。まるで透明人間。アロマンティックもアセクシャルも、圧倒的に可視化が足りていない。私たちには、私たちを語るための物語が、ほとんどないのだ。

 そんな透明人間、アロマンティックやアセクシャルをメインに据えた作品と言えば、記憶に新しいのはNHK恋せぬふたり』ではなかろうか。AroでAceなふたりの同居を取り巻く、男女が一緒にいるがゆえの社会的な常識の押し付けや、規範などを描いていた。
 このドラマは【恋愛関係にない人たちが一緒にいようと試みる話】であり、一方『そばかす』は【誰かと一緒にいなきゃいけない呪いから自由になる話】だ。同じAロマとAセクの話でも、全然違うのである。
 この『そばかす』が情報解禁された際、ちらほらと目についた言及があった。「また恋愛できない人の話か」といった旨のいちゃもんだ。いちゃもん以外のなにものでもない。じゃあ毎日地上波で垂れ流されている男女の恋愛ドラマにも「またか」と言って欲しい。
 Aスペクトラムはこの世にコンテンツが少なく、ただ見慣れていないだけなのだ。周りからは同じに見えようが、当事者にとってはリプレゼンテーションなんて、いくつあったっていいのである。それこそ、量産型の恋愛ドラマと同じように。

 『恋せぬふたり』が放送されていた当時、当事者コミュニティから「結局誰かと一緒にいなきゃいけないのか?」といった感想が流れてきたことを覚えている。あのときの誰かに、ぜひ『そばかす』を観てほしいと思う。
 あと『そばかす』は私が知っているだけでも、本っ当にいろいろなプロセスを経て、ようやく劇場公開に漕ぎつけている。ほぼ部外者の私が「大変だな……」と思っていたのだから、アサダさんのご苦労はいかばかりか。アサダさんが途中経過を報告してくださったときに、ぽつりと「このままだとNHKあたりに先越される」とおっしゃっていて、本当に『恋せぬ~』が情報解禁になったときは正直「ああ~……」だった。しかし結果的にまったく違うレペゼンになったので『恋せぬ~』のファンにも、是非観てほしいところ。

 『そばかす』を語るに外せないのは、主人公の佳純はもちろんだが、彼女の友人・真帆の存在だ。演じるのはあの前田敦子である。
 真帆は元セックスワーカーという背景を持っており、ある日浜松に戻ってくる。最初から佳純と特別仲が良かったわけではないが、30歳という大人になってから、ふたりは距離を縮めるのだ。大人になってからの友達っていいよね。家同士の付き合いとかじゃなく、個人の価値観でマッチングできるから。
 アサダさんの脚本作品で、丸亀製麺によるウェブドラマ『麵と千尋の平行世界』という作品があり(残念ながら今はもう非公開)、この主演が前田敦子だった。チャームがものすごくて、キラッキラしていて、空気感が抜群。だから『そばかす』にキャスティングされていると解禁されたとき、私は「やっぱり~!」と「最高やん」が半々くらいだった。最近の前田敦子を追いかけている人ならば、彼女の役選びのよさはおわかりかと思う。
 私はこの『そばかす』の中で、特に好きなシーンがいくつか存在する。そのうちのひとつが、佳純が真帆にとある言葉をかける場面だ。心の底から「ああ、いいシーンだ」と思った。私たちは連帯できる。観た人には是非当ててもらいたい。
 ていうかまず三浦透子前田敦子が出てるって時点で、すごい良い邦画そうじゃない? もうキャスティング勝ちじゃん。しかも北村匠海まで出てるんだってよ、ファンの人もたくさん観てくれそう。……とまあこんな感じで、本当に楽しみだった。

 まったく違う映画の話をするが、11月公開の作品で『窓辺にて』というものがあった。『his』で監督をしていた今泉力哉の完全オリジナル作である。
 私はこの映画も観に行ったのだが、主人公がアロマンティック的で、私は彼の行動に結構共感した。妻が浮気をしても怒りがわかない、でも彼女には幸せになって欲しい。めちゃくちゃ覚えがある。
 しかしこの映画のプロモーションでは、あれが【ちょっぴり可笑しい大人のラブストーリー】とされていて、ここでも私は「あれ……?」と思った。Aロマの私にだってもちろん愛(ラブ)はあるのだが、この宣伝文句の指すラブというのは、私が持っているラブじゃなさそうだぞ、と思ったからだ。なんでもかんでも恋愛をねじ込まないといけないんだろうか。
 玉城ティナ演じる高校生の小説家・久保留亜なんかは魅力的なキャラクターになっていたが、主人公のキャラクターについて、宣伝会社はどのような解釈でああいった宣伝をしていたのだろうか。
 あと『窓辺にて』の中では、多分作っている側にそんなつもりはないのだろうが、Aロマでは【健全な家族は築けない】と結論付けられてしまいかねないような展開があり、そのあたりはやっぱり恋愛が好きな人が書いた映画だと思った。価値基準の軸が、自己の主体性よりも恋愛にある感じ。
 そんで単純に何度も主人公が「あんたおかしいよ」と周りから指摘や糾弾を受けるので、私は自分に言われているような気持ちになり、もうええて……と思ったのだった。あれを可笑しいと思えるほど、私は主人公を客観視できない。

 『そばかす』にも、観ていて辛いシーンがあった。私は人がしくじったり、恥をかいていたり、責められて窮地に立たされているようなシーンが物凄く苦手だ。映画館の椅子から逃げ出したくなってしまう。『そばかす』にも何度かそういった場面があって、しかも佳純に降りかかるAスペクトラムがゆえの苦悩や失敗というのは、私にもとても身に覚えがあるものだ。余計に辛くなってしまって、嬉しかったり悲しかったり、本当にずっと泣いていた。
 私は何度かあったうちの試写会に一度参加したのだが、そこでは【私には信じられないシーン】で何度も笑いが起きていた。私からすると面白いなんてことはない、むしろ辛くて胸が苦しいようなシーンで、何度も。
 急に映画館の中で、頭の裏がひやっとした。私の苦しみって、この人たちにとってはエンタメで、面白おかしく消費することなんだと、改めて現実を突きつけられた。なんとも思っていなかった映画館の椅子の座り心地が急に悪くなり、差別的な表現で笑いが起きるたび、あの日の私も逃げ出したくなった。
 でもスクリーンの中の物語は、確かに私に寄り添ってくれた。ちゃんと私の手を握って、最後まで連れて行ってくれた。作り手側が伝えたかったことすべてを拾えている……だなんて大層なことは思わない。それでも私はこの『そばかす』という映画が大好きだし、私の物語だと思えた。

 しつこいくらいに言うが『そばかす』を観ることで、すべてが解決されるだなんてことはない。私はたまたま自分の物語だと思えたが、そうではない人だって当たり前にいるはずだ。もし『そばかす』に疎外感を覚えることがあっても、肩を落とさないで欲しいと思っている。
 当事者以外の人もそうだ。これを観ても、Aスペクトラムのすべてがわかるわけではない。私の隣で笑っていたあの人のように、なにも伝わらずに終わってしまうことだってあるだろう。「今時こんな結婚にうるさい親、いる?」なんて思えたら、きっとあなたは恵まれているのだ。そしてそういうことを言い出しがちな田舎にも、イオンシネマを通じて上映されるのがありがたい。

 この物語の、フィクションの持つ力を信じてほしい。『そばかす』は、あなたはあなたのままでいいし、なりたい自分になっていい、真摯にそう言ってくれる映画だ。主演の三浦透子が脚本を読んで救われたように、きっとそういう人がいるはずで、その人へ届いて欲しい。
 だからこの作品が日本中で必要な人たちに届くことはもちろん、アジアや世界でも広く上映されて欲しい、されるべきだと願っている。恋愛をしなきゃ一人前じゃない、パートナーがいないヤツは異常者、「おかしい」と干渉するのは優しさ、「自分の」子どものために身を削る経験をしていないと、人として認められない*3、恋やセクシャルな欲求が人生に必要ないというだけで、すぐに欠陥人間として扱われる。そうやって窒息しそうになりながら生きている人が、世界には山ほどいるのだから。


magazine.dokuso.co.jpとてもいい記事なのででっかく宣伝する。読んで欲しい。
こういう考え方の俳優さんが演じてくれたことが本当に嬉しい

 『his』のときもそうだったが、アサダさんは手の届きそうな未来を描いてくれる。今は辛くて苦しいことがあったとしても、近い未来や今生きている世界のどこかには、こんな場所があるかも知れないよと、そんな物語を示してくれる。透明人間の私たちに、元からあったはずの色を取り戻してくれる。
 私は、フィクションの力を信じている人の作品が大好きだ。LINEを開くと「あれ、私って蘇畑の連絡先知らなかったっけ?」と思うような距離感で、この映画は私に寄り添ってくれた。
 私だけじゃない。あなたや、この人や、あの人の人生が、この映画で実写化された。おめでとう、私たち。
 言い方は失礼かもしれないが、この作品がいち早く古くなって欲しいし、もっといろいろなAスペクトラム作品と比べられるようになって欲しいな。

 そしてアサダさんとお話していた当時、私の人生には【世永真帆】はいなかった。しかしなにをどうしてこうなったのか自分でもわからないけれど、今は真帆っぽい人がいたりする。
 人は変容する。そして、あなたはなりたい自分になれる。あなたにとっての真帆はきっとどこかにいるし、真帆がいたっていなくたって、あなたはあなただ。



[上映館]usaginoie.jp


[すごいバズってた静岡の映画館のツイート]


公開日に公開したこの記事も、結局13000字くらいあった。ここまで読んでくださった方に感謝しつつ、ぜひとも映画館へ。


風になれ

風になれ

*1:スプリット・アトラクション・モデル。ざっくり言えば「魅力」というのは恋愛的魅力・性的魅力以外にもあるよ、というもの。https://acearobu.com/split-attraction-model/

*2:広義にはノンバイナリーに分類される、男や女といった特定のジェンダーアイデンティティを持ち合わせないクィアのこと。「ない 」お仲間! https://onl.bz/SMDHUqr

*3:くしくも新作の大作(青いやつ)が同日公開。ケッ。こういうの見てると余計に海外で上映されて欲しいと思う。