月曜日の夕立ちはつめたい

走り出した気持ちが家出して戻ってこないときに書く

記事翻訳:とある70代の性的少数者の生と死との接し方+α

 突然だが、今回はウェブ記事を翻訳した。
 韓国の有名な、いわゆる中道左派と言われる週刊誌『時事IN』。たまに記事を読む。何人か好きな記事を書く記者がいて、そのうちのひとりがイム・ジヨン記者だ。彼女の書いた記事はここから読める。今月半ばに更新された記事に、気になるものがあった。

 今年1月、韓国である本が出版された。キム・インソンさんという71歳の女性が書いた『私の一番大切なものは私自身だった』という本だ。キムさんはベルリン在住で、同性のパートナーと暮らしているレズビアン。私も広義では同じセクマイだし、同じ病気の患者だということで興味がわいて、この記事を読んでから電子書籍で本を買った。
 邦訳の予定があるのかどうかわからないのだけど、日本でも彼女の本が読まれたらいいなと思い、思い切って記事を和訳してみた。時事INの記事は本文転載が禁止されているので翻訳はグレーかもしれないし、なんかダメだったらごめんなさいして下げるので言ってほしい。
 韓国語は日本語と文の造りが似ているけれど、やっぱりどちらかにあって、どちらかにないニュアンスというものもある。意訳も入っているけれど、大きく誤訳はないよう気をつけたつもり。よければ、続きから読んでいただきたい。

とある70代の性的少数者の生と死との接し方

 キム・インソンさんは、ドイツで『看護師』、『ホスピス』で暮らした。また性的少数者として注目を集めた。70年の人生を整理した本には、多くの困難を経験して得た文章が含まれている。

 テレビ電話なので、インターネットの都合でところどころ音声が小さくなったり、大きくなったりを繰り返した。とある言葉は完全に聞き取るのが難しかったが、笑い声だけはすべての難関を突破して鮮明に聞こえた。画面の向こう側のキム・インソンさん(71歳)が大きな声で笑うたびに、つられて笑うようになった。韓国時間では夕方、ドイツ・ベルリンが午前だった。ドイツはCOVID-19の拡散で全面封鎖がはじまった。外出することができず、家に留まりながら文筆の日常を送っている。日差しが眩しい彼女の家を背景に、インタビューが行われた。

 キム・インソンさんが韓国社会に名前を知らしめたのは、社団法人《同行 異種文化間のホスピス》を設立してからだった。ドイツ移民の最後を世話する初のホスピス団体だ。彼女は若い時分、派独看護師として長い間働き、以後ホスピス活動をしている。これを縁にアンゲラ・メルケルドイツ首相に感謝碑を授かったこともある。韓国でも外交通商部長官賞、ビチュミ女性大賞特別賞などを受賞した。以来《同伴者 異種文化間のホスピス》という名前に団体名が改まった。

 また、彼女は『60代の性的少数者』として、ひとしきり注目を浴びた。2019年、20周年ソウルクィア文化祭に招待され、虹色の布を巻いた十字架を持って行事に参加した。一時期韓国人男性と結婚したりもしたが、現在同性のキム・スヒョンさんと暮らしている。最近彼女は、自身の70余年の人生を整理した本を出版した。『私の一番大切なものは私自身だった』というタイトルは、一見当たり前の言葉のようだ。朝鮮戦争が起きた年に生まれ、ひとり単身でドイツに渡った人生の旅程を追ってみれば、多くの困難を身体で経験し得た文章だということを実感することになる。

 1950年1月2日明け方、慶尚南道・マサンで生まれた。前日の夜、産婆を呼びに行く彼女の母方の祖母を、警察が呼び止めた。夜間外出禁止令があった時代だ。事情を話すと「子どもが忙しなく年明けから生まれようとしているだって?」、「娘なら星回りが強いな」と言った。
「その当時に女の子が世の中に生まれること自体、縁起でもないって思ってましたよ。明け方に生まれたからなのか、私はよく夜更かしします。ハハハ」
 『新女性文化』の磁場にいた母親に、彼女は『この世に生まれてはならないこぶのような存在』だった。既婚男性の子どもだったがゆえだ。堕胎しようとあらゆる方法を用いたが失敗した。幼い頃、彼女は叔母や祖母と暮らした。一時父親宅に預けられもしたが、母親のみ他の兄弟たちと、やっとのことで食事を済ませた。

 16歳になった年、祖母がこの世を去った。無条件的な愛をくれる唯一の存在だった。未婚の母の事実を隠したまま新聞記者・通訳として働いた母親は、国連から派遣されたドイツ人と結婚したのち、韓国を離れた。
「幼い頃は憎くも、寂しくもありました。なぜ私は生まれたのだと思いましたよ。(自分が)年を取ったら、女性の立場からは十分にありえる選択だったと思います。子どもさえいなければ新しい人生を設計できただろうし、すごく憎かったでしょう」

 継父がドイツ・ボンにある看護学校の学生として、彼女を招いた。彼はキムさんを妻の姪だと思っていた。ドイツに看護師が足りず、韓国人看護師が大勢ドイツで就業した頃だった。1972年9月、キムさんがドイツ行きの飛行機に乗った。空港で彼女を迎えたのは、ひとりの修道女だった。朝・夕とミサを見物して、聖堂が運営する看護学校の候補生として病院実習をした。
 言語や文化が異なる土地で寂しかった彼女は、再び故国に帰る決心をしてお金を貯めた。院長のシスターが彼女に「荷物を置いて行きなさい」と勧めた。「韓国に行って生活してみて決めなさい」、という意味だった。帰ってきた韓国で喫茶店の使い走りとして働きながら、金持ちの一人息子だった父親一族の没落を目撃した。もう一度、ドイツ行きを選んだ。
「シスターもそうだし、私が失敗しそうになるたびに周囲で助言してくれる方々がいました。(自分で)韓国に行ってみなかったら、ずっと韓国へ行けばよかったと考えていそうで。目で見て『これは違う、ドイツに行って勉強しよう』、と自分で決めたし、実際に熱心にやりました」

 看護師として30年間余り仕事をした。ドイツは全人看護システムで介護制度がなく、看護師が入院から退院までの病院生活に気を配る。職員は皆同等な文化だった。当時、ドイツ社会は韓国の看護師を歓待した。
「ドイツはとてもパーソナルな国です。年齢は関係なく自分のことは各々好きにして、助けが必要ならそのとき話す文化は、根本的に韓国と異なります。そういうわけで韓国の看護師たちは歓迎されました。儒教文化圏の影響でお年寄りに良くして、言葉も温かく勤めました」

同性の伴侶と共にしてから30余年

 看護師として働きながら韓国人教会に通っていたとき、韓国人男性に出会って結婚した。鉱夫として働き、勉強して大学を卒業し、正式職員になった人だった。「神学を勉強して牧師になりたい」というキム氏を支持してくれた。
 大学に行くには、経るべきことが多かった。キリスト教奉仕団体『ディアコニー』の按手を受けて、3年間夜間高等学校へ通った。平日に働いて、週末に勉強した。大学の神学部に入学してから12年後に、ベルリン・フンボルト大学の神学の修士学位を取った。ドイツの教育課程を全身で経験したわけだ。ラテン語をはじめ、古典語のヘブライ語も学ばねばならなかった。手助けになったが、きつかった。

 1985年、韓国人教会が連合して主宰する《女神道》の修練会で、とある女性に出会った。彼女が手折った花をキムさんに差し出した。ベルリンの壁が崩壊した日、キムさんは彼女の見舞いのためベルリンを訪れた。
 女性を愛するようになるとは想像できなかったが、ある日突然そのようになった。夫と離婚手続きを踏む間じゅう、周りの韓国人たちは彼女に忠告と雑言を浴びせた。そのとき出会ったイ・スヒョンさんと共にして、30年が過ぎた。

 平素尊敬していた神学部の教授を訪ね、それまでの事情を打ち明けながら「勉強を続けるのは難しそうだ」と話した。女性を愛してゆくためだった。
「教授がそれではどんな人が神学を学ばねばならないと考えているのか、と聞かれました。模範となり欠点がない人がすべきなのではないかと答えると、そんな人はいないとおっしゃられましたね」
 ドイツはシビルユニオン制度を通じて、同性カップルを法的に認めている。ナチス時代多くの性的少数者が殺害されたが、段々と権利を認める方向に進んだ。

 韓国のクィア祭典に招待されたとき(※2019年)、韓国社会では今もなお同性愛が『とても問題視される』ことを実感した。同性愛者に祝福を与えた教会の牧師が、懲戒を受けたりもした。
「それは保守でもなんでもありません。聖書をろくに読まなかったのだと思います。ドイツでは神学的に受け入れるでもなく、(特別に)することがないんです。女性の牧師ふたりが結婚するとき、また別の女性牧師が按手をしてくれたりするので。個人の意思を尊重する民主主義的思想を幼いときから学ぶからです。韓国も隠してばかりいないで、あけすけに話す場を開かねばならないようです。相手方(※理解のない人たち)を説得することはできませんが、自身の話を真摯にすれば堂々としていられるんです。韓国に60代以上のレズビアンはいないと言われますが、ドイツで暮らした方々の中にもかなりいますよ」

 2001年、彼女はホスピスに接することになる。知人が家庭訪問ホスピスのボランティア教育をはじめた際、(キムさんに)助力を願った。死を目前にした人々が尊厳を守りながら人生を締めくくれるよう、世話をする仕事だ。数年後、イ・スヒョンさんの老後資金とキムさんの生命保険を解約して、ホスピス団体《同行》を設立した。
「ドイツに住んでいる韓国人の中には、死ぬときは韓国に行って埋められたい方が多いです。結婚もドイツでして、子どももここにいるけれど、他国で死ぬことが惨めに感じられるんです。韓国式で葬儀を行い、韓国の家族と連絡を取ったりもします」
 ドイツだけでも250か国ほどの移民がいる。まったくドイツ語ができない人もいる。韓国のみでなく様々な国の移民にホスピス教育を提供して、死に同行できるようにした。2009年より《同伴者》という名前で、活動を続けた。

 団体を初めて作ったときは、韓国人のための老人ホームを構想したりもした。費用と条件がゆえ不可能だった。彼女は「韓国社会が派独看護師たちに、もう少し関心を持たねばならない」と話す。若い頃に苦労し稼いだお金を故国に送金して、老後になって困難を経験する場合が少なくない。
「家族を扶養するのに韓国にお金をたくさん送ったけど、自分の身体を横たえる場所がなかったんです。生きているうちに一緒に集まれる場所を用意すればいいのだけど、それも難しく、せめてもと《同伴者》の事務所でお茶を飲んだり、昼ご飯を食べたりしました。コロナのせいで(様々なことが)不可能だから、行くところがないでしょう。外国で歳を取って死ぬのは容易いことではありません」

 ドイツは健康保険に加入した人ならば、誰でも経済的な負担なくホスピスサービスを受けることができる。ホスピスの専門家になるには、ボランティアからはじめねばならない。6~12ヶ月間、約130時間の教育を受けねばならない。必修で自身の一代記をまとめる時間を持つ。誰かを助けるためにも、自らにも必ず必要な過程だと思っている。
「人が他の人に完全に素直になるのは難しいけれど、自分自身には素直になれるでしょう。生きてどんな苦痛や悲しみを経験したのか書いてみると、傷が癒えている気もします。つかえることがあれば取り出し、流れることは流して、整理してみる時間でしたよ」

韓国を思い出しながら感じる悲しみと興味

 死を目前にした人は、大半が人生に取りすがる。キム・インソンさんを見て「1ヶ月だけ、1週間だけ、もっと生きたい」と話す。準備ができていないからだ。多くの死を目撃した彼女も、乳がん・子宮がんを順に経験した。手術と抗がん剤治療が『死の陰の谷』へ彼女を追いやった。500年生きるかのように振る舞うのに、今日が最後の一日やもという考えで生きねばならないと、彼女は言う。晩年に彼女の傍らで目を閉じた母の遺骨を、海に撒いた。継父に付いて世界の至る所を歩き回った母が、もう一度そこへ行きたがっていたがゆえだ。キムさんも似たやり方を決心した。

 韓国を思い浮かべると、深い悲しみを感じたり、文化が与える差異があるので興味深くもある。50余年ドイツで暮らした彼女は「ドイツが私を生かした」と言った。韓国で生まれ、主にドイツで暮らした女性の70年の人生を、なぜ注目しなければならないのか。
「たとえ努力してもできないことは、運命だと受け入れなければならないですが、ほとんどは本人が開拓することができると思います。私は娘として生まれました。息子が中心だった時代で、娘は所帯の元手程度だったでしょう(※『큰 딸은 살림 밑천』ということわざ、「長女は所帯の元手」)。私の人生を通じて、自分にとって一番大切な人は自分自身だと、勇気を出しなさいと話をしたかったのです」

 インタビュー中、終始彼女のそばにはイ・スヒョンさんがいた。しばしば彼女の声が聞こえた。引退したがまだやることが多いキムさんに、そっと「100歳まで生きな」とも言った。イさんは今回の本をどのように読んだのか。原稿を数十回読んだ彼女は「意見の違う方もいるでしょうが、多くの人々が共感できるのではないかと思います。石をひとつ投げると波が広がるように、微弱な力ですが、本を通じて今よりも性的少数者に向く視線が自然になればいいですね」と話した。
 最近のふたりの何よりの大きな喜びは、韓国ドラマ『誰がなんと言っても』だ。視聴率20%を超える家族ドラマだ(※KBSの月~金で放送している、夜にやっている昼ドラ。日本では未放送)。キムさんがタイトルを引用した「誰がなんと言っても私は私だ」で、画面が揺れるくらい大笑いした。

元記事:
www.sisain.co.kr


ここから先は別に読まなくてもいいよ

 私の海を越えた友人、彼女を仮に『ミンジ』とする。
 ミンジは日本語と英語が堪能な韓国生まれ・韓国育ちの女性だ。今はおおまかに括るとテレビ業界で働いている。ちょっとだけ、ウリミンジの自慢話がしたい。

 ミンジは本当に誠実で、真っすぐで、そして愉快な人だ。前の会社にいたとき、先輩の送別会で出し物をしろと言われ、私が「じゃあ鳥居みゆきムーダン版やれば?」と冗談で言ったのを本気にし、結果マジでやった女である。本人は「パワハラと飲みの誘いがなくなった」と喜んでいたが、私としては少し後悔の気持ちがなくもない。
 ミンジと出会ったのは学生の頃だ。いわゆるペンパルというやつである。もう無くなってしまった文通サイトで知り合って、メールをし、手書きの手紙を送り合い、今はカカオトークをする仲だ。他にも韓国人のペンパルはいたが、こうして定期的な交流が続いているのはミンジだけになった。

 ミンジは元ジャニオタである。一方の私はK-POPアイドルのオタクだ。そう、我々はお互いの利害が一致したのである。利益のために結託したオタクの絆は○○○くらい固い(任意の思いつく限りの硬いものを代入してください)。お互いの国の雑誌を買って送り合ったり、WEB記事を翻訳し合ったりしているうちに、アイドルと関係のないことを話すようになった。事前連絡もなく電話をかけてきて、2時間も3時間も喋って、何事もなかったかのように通話を切る。私しか知らないミンジの秘密もあるし、ミンジしか知らない私の秘密もある。私たちはそんな関係だ。もはや利害の一致なんてどうでもいい。ただの友達だ。
 ミンジはとても日本語が上手だ。正しくは「上手になった」。出会った頃はお互いルー大柴・韓国エディションだったのだが、彼女は私と話すことでめきめきと力をつけた。スラングも使いこなすし、発音も綺麗だし、私は本当に彼女のことを尊敬している。愉快かつ聡明な人なのだ。いつまで経っても타と다と따の発音で苦労している私を馬鹿にすることなく、いつも「今のは違う」ときちんと教えてくれる。すごく真っ当な人だ。

 週に一度程度は電話で話す私たちだが、毎年8月15日はお互い時間を作って電話をしている。知り合ったばかりの頃、お互いの育った国のこういった政治的な部分にはどうしても触れられなかった。知識もなかったし、若い頃は今より視野が狭かったからだ。お互いの国がより正しいのだと、お互いが思い込んでいた。
 きっかけは年末の大掃除だ。私は怠惰なので毎年末にヒィヒィ言いながら掃除をするのだが、その年はミンジと電話をしながら、嫌々机の中身を整理していた。余談だが捗るか捗らないかと言われると、正直捗らない。
 そのとき、高校時代に使っていた歴史の教科書が出てきた。私は何気なくそれを彼女に見せた。
『それはなに?』
「이건 ヨ、역사 어……教科書야.(これは歴史の教科書だよ)」
『쿄우카쇼가 뭐야?(キョウカショって何?)』
 こんな調子で、その日、初めてお互いの国で習ったことを教え合うということをしてみた。私たちの知っている『歴史』は、同じことでもまったく角度が違う。歴史を直視するのは辛かったが、目を背けたままでいいとも思わなかった。辛い目に遭わせたのはこちらだという、覆せない史実があるからだ。
 ふたりで英語の文献をあたって、夜中までファクトチェックをしたりした。今思えばとても『私たちらしい』。あれからお互いを友達から「めっちゃ仲良い友達」に格上げして今に至る。掃除は全然終わらなかった。

 この翻訳チャレンジも、ミンジの転職活動がきっかけだった。ある日突然ミンジが「これ読んでくれない!?」と送ってきたのが、とある日本語の記事を韓国語訳したものだった。ミンジが最終面接を受けている企業で、テストとしてそういった試験があるらしい。その試験対策として、自分でいくつか記事を翻訳してみたのだそうだ。私の韓国語力は出会った頃から大して成長していないが、元が日本語の記事だったので、ミンジの韓国語訳と照らし合わせてギリギリ読むことができた。
 でも結局、彼女はその試験を行った会社の内定を蹴ってしまった。その最終試験で出された翻訳課題は、広義の『マイノリティの権利』についての記事だったのだが、彼女が原文に忠実にレズビアンを레즈비언と訳したら、なんとそこを「センシティブな単語はなるべく使わないように」と指摘されたらしい。な~~~にがセンシティブやねん!!、とミンジ怒りの内定辞退。終わって即私にヨントンしてきたので、レズビアンって言葉を当事者から取り上げて、ただのポルノコンテンツにして消費したの、そっちの方やん? と、私の意見を伝えたところ「역시!! 내말이!!(さすが、だよね)」と悔しがっていた。

 上で訳した記事の通り、韓国におけるセクシュアルマイノリティの立ち位置の厳しさというのは、日本とはまた違った状況だ。そんな中でもアライだと叫ぶのをやめない彼女が、私は大好き。強い人だなあと思う。
 強いなあ、すごいなあ。そこまではいい。そう思ったら次に肝心なのは、それを受けた自分がどうするかだ。漠然と「私もなにかしよう」と思った。そのときにキム・インソンさんのこの記事を読んだことを思い出した。ぬるぬる牛歩だが本も拝読中だし、私もやってみようかな? そう思って訳してみたのが、このエントリの冒頭の訳文だ。ちなみに完成したものをミンジに見せたところ、すごく褒めてくれた。

 韓国語に触れはじめて、自分はゆうに10年は経つ。それなのに自分の語学力ったら。自覚はあったが普段いかに知っている単語のみ注視して、細かい部分を読み落としているか実感させられた。これはこういう意味だろ、と推測して読むのも大切なことかも知れないが、いかんせん私には語彙力・文法力がない。日本語にはない表現を訳すときも、ニュアンスを汲み取るセンスガオプソヨ……と落ち込む私を、ミンジは「다시, 다시!!(もっかいもっかい)」と、何度も慰めてくれた。やっぱり大好き。

 また気になる記事があったら、今後もこうしてたまに訳してみようと思う。本当に勉強になった。……マジでなんかまずかったら即下げます。最後にもう一度、記事を書かれた記者は時事INのイム・ジヨンさんです。勝手にお借りしてすみません。ありがとうございました。